トナカイさんにお会いするのは去年の秋の写真展以来、二度目でした。わたしの顔を見てすぐにかけてくださった言葉に、もうわたしは大丈夫なのかもしれないと、やっと思うことができました。お話しさせていただいた時間は長くはないけれど、それでも十分なほど、選ぶ言葉や何気ない仕草から、大切にされている思いが伝わってくるような方だと感じています。生きている中のどんな時期も、そのままに見つめてくださるような安心する気持ち。去年は一緒に悲しくなって、今年は一緒に笑うことができました。そのどちらも、心を柔らかくしてくれる大切な記憶です。

トナカイさんが展示をしていた、尾道の「本と音楽  紙片」の店主である寺岡さんも、そんな手のひらや眼差しを持っている方だと思います。紙片には本と音楽と一緒に、これまで展示をしてきた作家さんたちの作品があちらこちらに溶け込むように置かれています。見上げた本棚の上に小さい者たち。壁に書かれた言葉。ころころと寄り添っている石。年月と共に積み重なっていく地層のようで、わたしはその密やかで美しい景色が好きです。寺岡さんが言葉にしなくても、重ねてきた時間や細やかな思いが確かな気配となって、あの場所を作っているように思います。

そこに、トナカイさんの写真と詩が、命を愛おしむようにひとつひとつ展示されていました。紙片の空間に合わせて選ばれた作品と、一人でゆっくり向き合う時間はかけがえがなく、展示を見ることができて本当にうれしかったです。

帰宅して、去年ローライフレックスで撮ってもらった写真を見返して気づいたこともありました。カメラの前に座ると、その向こうにいる人が誰か、ということも写るから。トナカイさんが一緒に悲しんでくれて、わたしは悲しいままでいることができたんだということ。わたしはそれまで、写真を撮ってもらおうと考える時には、うれしい時、幸せな時、お祝いの時。そういう時を選ぶものだと思っていたけれど、そうではない今を残しておきたいと思えたのはトナカイさんだったから。写真に写る一年前のわたしに「物語は変わるよ」と語りかけると、わたしとわたしはふたりして泣きそうになりました。

そうして過ごした時間を思い返しながら、うれしいうれしい気持ちに満たされて、新しく撮っていただいた写真と写真集を枕元に置いて眺めたり、布団にもぐったりを繰り返していたら朝になっていました。本棚の上に飾ってみたけれど、何度も手に取って眺めています。今も机の上、手が届く場所にあります。

トナカイさん。寺岡さん。それからもう一人。あの日を一緒に過ごしてくれた方。

喫茶トナカイの前で偶然出会ってお話ししていくなかで、わたしの喜びを自分のことのように喜んでくれた時。隣にもう一人自分が現れたみたいな、心の底からってこういうことなんだって思うような、初めての驚きとうれしさがありました。その後、彼女が写真展に置かれたノートを読みながら、感想を残しているひとりひとりの方の暮らしに思いを馳せる言葉を聞いて、彼女もまた、関わる人の気持ちをとても大切に思うお一人なのだと感じました。

幸せです。みなさんのおかげで、とてもあたたかい一日になりました。

ありがとうございました。

(…全然うまく書けず、落ち込みつつ。でも残したい)

2023年11月28日




2023年4月


 






土に還そうと手にして









花びらになろうとしたのかな




2022年12月












 2022年11月





2022年10月

またいつかの約束は、少し先の道に、そっと光を置くみたい。一つずつ思い出したら、わたしの前に光はいくつも灯っていた。











 
2022年9月






 






 































 





2022年8月

何年も決められずにいたカメラストラップをようやく新調した。いいねと声をかけながらカメラを触っていたら、1ヶ月前に壊れていた部品がすんなり直った。何回試してもできなかったのに。不思議なようで、不思議じゃない感覚。

ずっと焦っていた。新しいカメラにすれば変われると思っていた。でも、自分に何が足りないのか、どうしたいのか分からないまま、闇雲に探したって辿り着くわけなかった。大切なのはもっと別のこと。









ほんとうに伝えたかった言葉って何だったのかな。
「ほんとはね」って言ったところで、そのもっと深くに、言葉にならない一番大切な気持ちがあるのに、わたしはそれを取り出せないまま、伝えようとしてしまう。
思い出してみたら、そういう時のからだは緊張している。ぐっと力が入ってる。自分を包んでいる膜がぺちゃんこになって、自分を守ることに必死。相手の事情を尊重する気持ちを見失って、出てくる言葉は固く、コントロールを含んでいる。怖い。そんな自分はとてもいや。

やわらかいからだは…たとえば誰かと会った帰り道。あったかくて軽やかで、背筋も伸びていたりする。膜の内側はたっぷりと満ち満ちて、弾んでいる。きっと一緒にいた時、相手とも触れ合っていただろう。そうか、うれしかったねって、からだから心を知る。

いつだったか、「感情は “ rasa ” 液体なんだよ」と教えてもらったことがある。排除しようとしても、固体じゃないから掴んで出すことができないし、取り出そうとすると余計に掻き乱されてしんどくなる。気づいて、ただ在ることを見ていると自ずと落ち着くところへ落ち着くんだよ、と。
わたしは心と体の調子が悪かったり、自信がなかったり、無意識に自分の中にある怖れの種が反応したりした時、感情は暴れ始める気がする。期待、もあるかな。そんな時に、その場で感情と距離をとって “ 気づく側 ” にいるのはとても難しい。

じゃあ、少しでも、できることって何だろう。
少し落ち着いてから、心の湖を思い描いてみる。波立っていた怖れの下に隠れていたのは、あなたがいてくれてうれしいという、両手で掬い上げたくなるような、澄んだ気持ちだった。
いま感じているその安らぎを、からだいっぱいに広げて、覚えておこうと思う。
ゆらゆら揺れてしまう感情も、とても人間らしいものだから。そうなってもいい。それでも、からだが固くなった時、あ、いまずれている、って気づくきっかけにできるように。戻ってくる場所を覚えておこう。大切なものはそこにあるから。




 2022年6月


一緒に暮らし始めて1週間。
家族の膝から膝へ、飛び回っていっぱい甘えていた。




2022年5月


わたしの暮らす街に遊びに来てくれた友達と、たくさんの場所に行くことができた。

その場所のひとつで、何年ぶりだろう、すごく久しぶりに会えた子がいた。懐かしい声で「ポケモンのレアキャラくらいの遭遇率が貴重でいいよー」って無邪気に言ってくれて、会えなかった長い時間をまるごと照らしてくれた。

きっと、先月や去年どうだったかなんて関係なく、わたしたちは、思っているよりもずっと広大な時間の流れに漂いながら、姿が見えなくても一緒に生きている。いつか不意に流れに引き寄せられて、また触れ合うこともあるかもしれない。その時が訪れなくても、このひと続きのどこかにあの人がいることを知っている。

そんなふうに思えたのは、友達が隣にいてくれたから。繋がりの中で生かされている。




2022年4月


 



この一粒ずつ全部が、あさりの稚貝たち。
水槽の底で、お互いに身を寄せ合って生きていると安心するのだと教えてもらった。








椨の花の子
帽子を鳴らす




 


職場へ行く前に、公園へ立ち寄った。
昨日までなかった椅子。誰かが忘れちゃったのかなと思って近づいていたら、フェンスの向こうのお家から、がっしりとして背筋の伸びたおじさんが出てきた。湯気のたつカップを持ってこちらへ歩いてくる。
少し緊張して「おはようございます」と挨拶をすると、歩きながらじっとこちらを見て、「ここがえかろうが(ここがいいだろう)」と言い、椅子に座って置いていた本を読み始めた。









 


2022年3月

「あなたにしかできない領域があると思います」

前回の総評を読んだ時は丸一日落ち込んで何もできなかったから、今回も読むのがとても怖かった。その中の一文だった。

この言葉はわたしに向けられただけではなくて、誰もがそうなんだと思う。
誰もが、その人の人生を生きて、その人だけの経験を重ねている。

自分では自分のこと見れないから、外側の光のまぶしさにわたしはつい目が眩みそうになる。でも、これまでの全部がかけがえのないものだと、そう思えた。




 2022年2月






 

息を吸って わたしは微笑む

息を吐いて わたしは静か


ティク・ナット・ハンの言葉に目を瞑る